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札幌室内歌劇場コ-ル・ピッコラ第10回記念公演 オペラ 「雨情とひろとお月さま」 詩:野口雨情 台本・作曲:岩河智子
★5月22日一般発売開始 ★未就学のお子様のご入場はご遠慮ください。 ★支持会員の方で時計台招待券をお持ちの方は、1,000円件としてご利用いただけます。
出演:
独唱:
合唱:
スタッフ:
オペラ「雨情とひろとお月さま」あらすじと作品解説 童謡とは、元々神が子供の口を借りて事件などをほのめかせる歌でした。大正期以降は子供のために大人によって製作された歌です。 私たちが子供の頃に口づさみ、小学校で習い、数多くの大人を魅了する童謡。その今なお愛され歌い継がれる童謡の中において、「雨降りお月さん」「シャボン玉」「」「七つの子」などの珠玉の作品を数多く残したのが、さくら市縁の詩人野口雨情でした。オペラ「雨情とひろとお月さま」は、野口雨情の文学青年に成長し、喜連川(きつれがわ)出身で同じく文学を愛した妻ひろとの結婚と幸せな家族生活、苦難を経ての別れ、そして、雨情は詩人として、ひろは離れた空の下から子供たちを育てつつ、雨情をそっと見守る決意を固める姿を描いた創作オペラです。 ※ 今回のオペラでは実在の人物をモデルとはしますが、フィクションとして再構成した岩河智子氏の創作作品となっております。 第1章 No.1 海のさと No.2 山学校 No.3 東京へ No.4 磯原へ 第1章は、北茨城の磯原で野口雨情が生まれた「海のさと」、時には学校を抜け出してまで本を読み文学青年と成長する「山学校」、文学旅行のため上京する「東京へ」、父の死により東京から磯原に戻る「磯原へ」で構成されています。 野口雨情は、明治15年茨城県磯原の大きな廻船問屋の長男として生まれました。家からは青々とした美しい磯原海岸が見え、そこにある小さな山「天妃山」は、子供だった雨情の遊び場かつ、学校を抜け出しては、本を読む場所でもありました。時には、あまりにも熱心に本を読んでいて、ヒバリが鳴く時間から蛍が飛んだり、お月様が顔を出したりする時になることもありました。 そんな雨情はいつしか文学青年へと成長し、文学修行のため上京します。東京では坪内逍遥先生や後の文学者になる仲間たちと出会います。いい作品を作るため、仲間たちと学び合い、励まし合い、時には酒を酌み交わしながら生き生きと活動します。 しかし、父が亡くなった知らせが東京の雨情に届きます。同じ頃、妹のちえは、東を見ながら天妃山の麓で、兄雨情が磯原に早く帰ることを願います。東京の部屋で外を眺めると、そこには雨があたり、それを見ながら、「帰りませうか 古里へ 別れませうか 東京と」とつぶやき、あるときは夜空の半分に欠けた月に自分の文学修行の中断を重ねます。そして、雨情は生まれ故郷の磯原に戻るのでした。 第1章に登場する雨情の詩集 No.1 海のさと ・甘露日(明治40年7月「新声」) ・波がざんぶりこ(大正13年6月1日「青い眼の人形」金の星社) No.2 山学校 ・羊の学校(昭和6年1月「セウガク2年生」) ・桜と小鳥(大正11年3月「金の船」) ・ひばり(大正13年6月1日「青い眼の人形」金の星社) ・蛍の学校(昭和6年11月「童謡唱歌名曲全集 第2巻」京文社) ・おぼろお月さん(大正13年6月1日「青い眼の人形」金の星社) No.3 東京へ ・舗道(昭和11年8月20日「草の花」新潮社) ・自由の使命者(明治36年9月18日「社会主義」) ・可愛い君さま(昭和11年8月20日「草の花」新潮社) ・銀座の月(昭和3年8月1日「野口雨情民謡叢書」民謡詩人社) No.4 磯原へ ・磯原小唄(昭和7年7月16日「いはらき新聞」) ・半月(大正14年11月「少年倶楽部」) ・硝子の窓(昭和11年8月20日「草の花」新潮社) 第1章の歴史的なお話 野口雨情(本名英吉)は、茨城県磯原で廻船問屋を営む父量平と母てるの長男として生まれました。家は「磯原御殿」と呼ばれ、周辺は水戸藩主がその美しさから観海邸と呼ぶ場所でした。雨情は2階の部屋から大海原を見ながら読書をすることを好んだそうです。1901(明治34)年文学青年となった雨情は、東京専門学校予科文化科(現早稲田大学)に入学し、坪内逍遥先生や後の童話作家となる小川未明と出会います。舞台上では、若き雨情が社会主義に傾倒したことを象徴する幸徳秋水やほぼ同じ頃に文学修行で1904(明治37)年に上京し、後に野口雨情と同じ日本三大童謡詩人として共に活躍する北原白秋も登場し、雨情の人生を表現しています。 雨情の学生時代は、わずか1年の中退で終わり、その後はしばらく東京で作家活動を続けます。そして、1904(明治37)年翌年父量平が亡くなり、磯原に戻ります。家は事故による船の損失と鉄道の開通で傾き始め、わずか23歳で家督を継いだ野口雨情に膨大な土地と父の残した借金がのしかかることになります。 第2章 No.5 ひろの夢 No.6 2人の出会い No.7 結婚 喜連川(きつれがわ)に住むひろは名門氏族で、父が醤油製造をする大きな商家で生まれました。ひろはまるで、春の野に咲くスミレや璉光院(れんこういん)の梅の木で遊ぶウグイスのように美しく文学を好みました。恋の文学を読み、また自分で書いては自分と未来の夫に重ねて顔を赤らめる時もありました。そんなひろに、結婚の話が来ました。相手は野口雨情といって磯原に住み、なんと東京で文学の勉強もした人でした。文学を愛する人との結婚にひろは運命を感じるのでした。 いよいよ、ひろが雨情のもとに嫁ぐ日が来ました。雨情の家では妹のちえや近所の女性たちがうきうきしながら式の準備をします。あいにくの雨の中、雨情のもとに鈴をつけた馬に乗る美しい花嫁姿のひろが到着します。春のひととき、若い2人は永遠の愛とお互いを支えあうことを誓い合い、そしてまばゆい姿の2人が末永く幸せであるよう、人々は祈るのでした。 第2章に登場する雨情の詩集 No.5 ひろの夢 ・鶯の夢(大正14年1月「婦女界」) ・春の魁(昭和9年2月「現代」) No.6 2人の出会い ・菫と星はお友達(昭和6年1月「婦人世界」) ・社の梅(大正14年1月「金の星」) No.7 結婚 ・春の月(大正14年3月「令女界」、大正15年6月10日 改題「紅屋の娘」) ・雨降りお月(1番 大正14年1月「コドモノクニ」、2番 大正14年3月 原題「雲の陰」「コドモノクニ」) ・春の誓(明治36年3月10日「誓世」) ・春の鳥(昭和11年8月20日「草の花」新潮社) ・梅のお寺(明治38年3月「いはらき」) 第2章の歴史的なお話 高塩(野口)ヒロは、栃木県喜連川で江戸時代は喜連川藩に仕えた旧家、明治維新後は醤油製造業を大きく商う資産家の高遠武とアサ夫婦の間に三女として生まれました。今回のオペラでは実在の人物をモデルとはしますが、フィクションとして再構築し、岩河智子氏の創作作品のため、ひらがなの「ひろ」としています。この他にもひろ子や廣などの記述も見受けられますが、歴史的なお話の時は「高塩家系譜」にある「ヒロ」で統一いたします。 当時は婚約後その家になじめるかを見て正式な結婚となるため、雨情とヒロが婚約したのが1904(明治34)年11月、婚姻届を出したのが翌年の5月でした。 雨降りお月さんは、このヒロが雨情のいる北茨城に嫁ぐ際、雨に降られたものとの説もありますが、雨情がそれを記録として書き残したものは確認されてはおりません。 第2章の最後で登場する梅のお寺は、婚姻届を出す2ヶ月前、雨情とヒロが揃って喜連川に里帰りして璉光院を訪れた際に作成したものを新聞「いはらき」に発表したものです。 第3章 No.8 ある日の風景 No.9 誕生と別れ 野口雨情と結婚したひろは、結婚後も共に文学作品を作ります。 ひろは秋星(しゅうせい)という名前で時折作品を発表し、雨情共々高い評価を受けます。そんな幸せな2人の間に待望の雅夫という息子が生まれます。 元気いっぱいながら、雷に怖がる姿がいとおしい雨情とひろ夫婦。その夫婦の間に今度はみどりという女の子が生まれました。大きくなったら美しい着物を着せてと成長を楽しみに大切に育てますが、みどりはシャボン玉のようにはかなく、1歳の誕生日を迎えることなく亡くなってしまいます。 第3章に登場する雨情の詩集 No.8 ある日の風景 ・俵はごろごろ(大正14年12月「金の星」) ・可愛い小鳥(大正10年1月「少年倶楽部」) ・ひよこ(昭和13年3月「幼年倶楽部」) No.9 誕生と別れ ・お雛さんの目(昭和4年3月「小女倶楽部」) ・子守唄(昭和18年2月28日「朝おき雀」鶴書房) ・誕生になったら(昭和5年11月「婦人倶楽部」) ・シャボン玉(大正11年11月「金の塔」) 第3章の歴史的なお話 ヒロは同じ歳の野口雨情と結婚後、秋星と号し、1905(明治38)年に新聞「いはらき」に秋星名で「天使の歌」を掲載、翌年には長男雅夫が生まれるなど、第3章のように、雨情とヒロは共に文学を愛するおしどり夫婦でした。 しかし、若き野口雨情は必死に家長として働くものの、野口家の破綻は止まらず、野口家再興のために樺太渡航し、1907(明治40)年、師である坪内逍遥の斡旋で札幌の新聞社に勤務するため北海道に向かい、この年の10月石川啄木と小樽日報の創業に加わり、三面記事を担当します。この頃、ヒロは長男雅夫を連れて北海道に渡り、雨情と生活を共にします。そして翌年、3月に2人の間にみどりという長女が生まれますが、わずか8日で亡くなってしまいます。童謡「シャボン玉」には、雨情の亡児に対する鎮魂歌といわれるいくつかの説があります。そして、みどりもそのうちの1つと言われています。 第4章 No.10 すれちがい No.11 父子の会話 No.12 ひばり(パッサカリア) No.13 母子の別れ みどりが亡くなった後、雨情とひろの間には美晴子という娘が生まれました。美晴子は兄である雅夫と共に雨情とひろによって成長していきます。しかしこの頃から、生活に縛られることに苦しさを覚え、ずっと自分の中にあった芸術家として自由な空気の中に飛び出して、思う存分作家活動をしたい思いが強まっていきます。そのため、仲むつまじかった雨情とひろ夫婦は気持ちがすれ違うようになり、ひろは夫の変わってしまった姿に涙します。 しかしかわいい2人の子供たちを見ていると、なかなか決心がつかなかった。しかしとうとう雨情はひろと別れる決心をする。そしてその決心によって、ひろは雨情のもとだけでなく、愛する2人の我が子とも離れなければならなくなりました。心も体も張りさせそうな思いを持って母であるひろが去った後、雅夫と美晴子の2人は母に会いたいと涙しながら寂しい日々を過ごすことになるのでした。 第4章に登場する雨情の詩集 No.10 すれちがい ・有明お月さん(大正11年3月「かなりや」) No.11 父子の会話 ・七つの子(大正10年7月「金の船」) No.12 ひばり(パッサカリア) ・逃げた小鳥(昭和8年3月「こども家の光」) ・空飛ぶ鳥(昭和11年8月20日「草の花」新潮社) ・雲雀(ひばり)(大正15年5月「婦人世界」) ・田舎娘(昭和11年8月20日「草の花」新潮社) ・雲雀の水汲み(大正13年5月「金の星」) No.13 母子の別れ ひろは、子供たちと離れることなり、悲しみのどん底に沈む。 ・あの町この町(大正13年1月「コドモノクニ」) ・ひとり旅(大正14年12月「コドモノクニ」) ・十五夜お月さん(大正9年9月「金の船」) 第4章の歴史的なお話 1913(大正2)年に次女美晴子が生まれ、苦しいながらも支え合っていた雨情とヒロでしたが、2年後の大正4年に入ると暗転します。野口家の破綻が止まらず、ヒロの持参した財産を守り野口家の再興を目的とするためと思われる、雨情とヒロの協議離婚届が役所に提出されます。これはヒロの戸籍に記載されているので、離婚したことは間違いありませんが、ヒロがこの件で父に相談した返答の書簡が野口家に残っており、「離婚はあくまでも当面のことで、いずれは復籍できるから安心するように」とあることや、他の資料からも雨情とヒロが離婚後の一緒に暮らしていました。しかし1917(大正6)年、雨情とヒロの関係が悪化し、実質の離婚となり、ヒロは子供を北茨城の野口家に残し、自分は喜連川の実家に戻ります。 第5章 No.14 動物メドレ- イントロダクション No.15 動物たち No.16 動物メドレ- フィナ-レ 自分に対する愛情がなくなった雨情とそれによって愛するわが子と離れなければならなくなったひろ。毎日わが子を思い、失意の中で過ごすひろに対して、ある日雨情が作詞した「兎のダンス」のウサギや「蛙の夜回り」のカエル、「証城寺の狸囃子」のタヌキたちが次々とひろの周りに楽しそうに登場しては歌い、はげましていきます。 第5章に登場する雨情の詩集 No.14 動物メドレ- イントロダクション No.15 動物たち ・兎のダンス(大正13年5月「コドモノクニ」) ・蛙の夜回り(昭和4年3月「コドモノクニ」 ・黄金虫(大正11年7月「金の塔」 ・証城寺の狸囃子(大正13年12月「金の星」 No.16 動物メドレ- フィナ-レ 第6章 No.17 ひばりの声 No.18 子どもの姿 No.19 フィナ-レ かごの中でヒバリ(雲雀)を飼っていても、意味がない。ヒバリは大海原と大空広がる場所にいるからこそヒバリなのだと。それと同じように自由の空気の中にいてこそ、雨情なのであり、そうであってこそ、雨情から素晴らしい詩が生まれると悟るひろ。 文学を愛する者同士として、そして妻という立場で一番近くにいて理解していたのは自分であったことを気づくひろ。そうであるなら、自分は子供立ちのもとに向かい、不安な2人を抱きしめ、そして雨情の詩のすばらしさを離れた場所から見守りつつ子供を育てるのが自分である。自らの生き方を見出したひろは、晴れやかな気持ちで子供たちの元におもむき、そのとおりの人生をここから歩み始めるのでした。 第6章に登場する雨情の詩集 No.17 ひばりの声 ・雲雀はどこに(大正14年7月「婦人倶楽部」) ・海の遠く(大正13年6月「小女倶楽部」) No.18 子どもの姿 ・すすきの蔭(大正13年4月「女性改造」) No.19 フィナ-レ 離れていても雨情の詩を聞くことのできる幸せをかみしめ、自分は2人の子供をしっかりと育てようと決意する。 ・ひばり(昭和4年10月「日本児童文庫・児童唱歌集」アルス) ・ 雲雀子(明治38年6月11日「毎日新聞」) 第6章の歴史的なお話 ヒロが北茨城の野口家に残した子供たちを育てるため高塩姓のまま野口家に戻るのが、高塩ヒロ宛の手紙が多数野口家に残る1919(大正8)年以前、1920(大正9)年頃と言われます。その後、北茨城の土地などがヒロの名義変更したことが1928(昭和3)年雨情からヒロの兄へ送られた書簡に書かれています。この頃になると、雨情とヒロは愛憎を超え、2人の間でたわいもない挨拶の書簡を含めたやりとりも行い、雨情は公演旅行の帰途、何度も磯原に立ち寄っています。 ヒロが正式に雅夫の母として高塩姓から野口姓へ入籍したのが1943(昭和18)年。この年、雨情は病に倒れ、翌昭和19年に空爆を避けるために栃木県宇都宮市に疎開。そして、昭和20年1月27日63歳で亡くなりました。 雨情が亡くなった後、東京都と北茨城への分骨が決まります。1963(昭和38)年、波乱の人生を気高く生きたヒロが亡くなり、雨情の骨を収めた隣にヒロのお墓が建てられ、現在2人並んで眠っていることは、あまり知られていません。 野口雨情とヒロを巡る物語 –さくら市と雨情- 野口雨情(本名:野口英吉)は、明治15年(1882)5月29日に茨城県の現北茨城市で生まれた詩人、童謡・民謡作詞家です。その作品には「七つの子」「赤い靴」「青い眼のお人形」「シャボン玉」「黄金虫」「雨降りお月」「証城寺の狸囃子」などの名作も多く、北原白秋、西条八十とともに、童謡界の三大詩人と言われました。 その雨情と明治37年(1904)に結婚したのが、喜連川の高塩ヒロでした。ヒロは北茨城に嫁いだ後に、雨情の北海道行きにも同行し苦楽を共にしました。ヒロの実家高塩家も野口の家を支えますが、野口家の破綻が止まらず、財産の確保のために雨情とヒロは協議離婚します。しかし離婚後も同居は続きましたが、すれ違いが続き、後に事実上の離婚となります。 その後、雨情は北茨城を離れつると結婚、ヒロは北茨城にいた2人の実子を育てるため、再び北茨城の野口家に入り、家を守ります。 あまり知られてはいませんが、2番目の妻つるとヒロの墓それぞれに雨情が埋葬されています。 なお、さくら市第1号の指定文化財、高塩家所蔵野口雨情関連資料からは、晩年の雨情とヒロや高塩家との交流が戻ったこと、雨情の妹が喜連川に嫁いだり、氏家駅近く平野屋を定宿にしたことが分かります。 近年、さくら市喜連川の璉光院境内に、雨情が唯一喜連川で詠んだことが確定できる「梅のお寺」やさくら市ミュ-ジアム-荒井寛方記念館-内に野口雨情コ-ナ-の設置、また敷地内に「高原颪」詩碑が建立されており、さくら市は野口雨情と縁が深く顕彰を続けている土地です。 <これまでの発表会> 第 1回(2007.7) ヴェルディに乾杯! 第 2回(2008.7) 夏の空に乾杯! 第 3回(2009.7) しあわせのメロディ-に乾杯! 第 4回(2010.7) 恋する夏に乾杯! 第 5回(2011.7) 五年の歳月に乾杯! 第 6回(2012.7) 新たなステージに乾杯! 第 7回(2013.7) 偉大なるドイツオペラに乾杯! 第 8回(2014.7) 父母のアリアに乾杯! 第 9回(2015.7) 歌う喜びに乾杯! 第10回(2016.7) オペラ「雨情とひろとお月さま」 今回発表
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